人が想像できることは必ず人が実現できる
慶応義塾大学武山研究会(KEG)2011年度プロジェクト「Mirai Project」のブログです。2011年度ミライプロジェクトメンバー確定しました。計6人の学生メンバーでブログを更新していきます。
2011年4月30日土曜日
あなたの妄想がミライを作る!?
2011年4月29日金曜日
ミライのクルマ(おまけ記事)
敢えて画像はつけないので、上のムービーでご覧下さい(笑)
空飛ぶクルマ
ミライ予測といっても、もはや実験されているもの。「空飛ぶクルマ」です。このブログでもnike君とか僕とか、以前にご紹介していますが、こちらはまた別物。
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=2010072901&expand#title
こうやってみると、ただの飛行機に見えるんですが、「クルマ」と呼んでいるポイントはつ。
・個人専用の乗り物である事。
これでチェックインの時間がはぶけたりします。
・↓こんな感じで、陸の道路を走行する事も想定している。
さらに、かなり飛行免許取得が容易になっているらしいです。そこは「運転免許」という言い方をしてほしいところですが(笑)
陸の道路は都市は飽和状態。ということで、空を「クルマ」が飛び交う日も近い、かも?!
ひきつづきミライの乗り物!
さきほど車の練習から帰ってきました!ミライブログ、新メンバーの優香です!
運転から帰ってきていいものを見つけました!先日のYSさんに引き続き・・・ミライの車予測です♪
こちら、ベンツが2040年を予測して発表したコンセプトカーです。
じゃじゃん!
かなり近未来的な形です。
いつの時代も私たちにとって、かかすことのできない乗り物。
これからどう進化していくのか、楽しみです!
2011年4月27日水曜日
デジタルサイネージが街に広まった世界って本当に便利なの?
ミライブログ再始動!
昨日、久しぶりにこのブログの記事が更新されましたが、ご覧いただけましたでしょうか?
我が武山研究会は今年度のメンバーが4月頭に確定し、新たな年度のスタートを切りました。そして、昨年度の実験「ミライ・ツイート・カンパニー」が様々なニュースサイト、雑誌、書籍などに掲載されるなど好評を博したミライプロジェクトは今年度も行われる予定です。
ミライプロジェクト自体は6月頃に本格始動なのですが、始動にあたって、このブログは一足早い稼動をしようかと考えました。まだミライプロジェクトのメンバーは全くの白紙なのですが、新たに武山研究会のゼミ生となった3年生たちに有志でブロガーを募り、5名がブロガーに名乗りをあげてくれました。(うち1名は途中参加)
彼らがミライ班に所属するかどうかは未定ですが、彼らの発信する「ミライ」情報や「ミライ」に対する彼らの考え方をぜひご覧いただければ、と思います。
6月頃まで、このミライブログ「②〇③〇」は、まさ、akari、肇城、優香、shoichi、そして元ミライ班で今年もミライ班内定のtomy、大学院に進学し引き続き「ミライ」について研究するYSの7名でほぼ毎日更新していこうと思っております。
武山ゼミ生はもちろん、外部の方々も、ドシドシコメントをお待ちしております。
2011年4月26日火曜日
技術やサービスは人のために在れ。
ハジメマシテ。未来ブロガ―に新たに加わりましたMASAです。火曜日を担当することになりましたので、これからよろしくお願いいたします。
さて、今季一発目のブログということなので、ここはひとつ大きなテーマを取り上げてみようと思います。
技術やサービスは日進月歩。次々に新しいモノが生まれ、古いモノは忘れ去られていく様はみなさんもご存じの通りです。
一方、技術やサービスを使う側である我々人間はどうでしょうか。100年前の人間を思い浮かべてみましょう。西暦1911年といえば、かの有名な夏目漱石の晩年期にあたります。みなさんの多くが彼の著作を一度は読んだことがあるでしょう。それだけでなく、その中に描かれる人間模様や心理描写に共感したこともあるはずです。当然ながら『坊っちゃん』の中に今私が向き合っているパソコンは登場しません。まだこの世に生まれていませんから当然ですね。
パソコンも無い時代に書かれた小説に我々は共感している。これはつまり、人間はそう簡単に変化しない。ということを示しているのではないでしょうか。100年前であろうが、500年前であろうが、人間の根本的なところは変わっていないと思うのです。昔から男と女は色恋に忙しいのです。そしてこれからも。
今、私はブログを書いています。私と言う人間が考えたことを、言語を通じて表現し、それを文字に起こし、ネット上にあげ、自分の考えを多くの人と共有させる。これは便利なサービスです。なぜなら私が日常において対話できる人間関係を超え、無数の人間と考えを共有できるからです。この技術がなければ、歩き回って会う人会う人に毎回同じ話をしなければなりません。
ではもし、私がブログを書かずに実際に会う人会う人に同じ話をし、相手に反応を求めたとしたらどうなるでしょうか?話す相手の生の反応が分かりますし、こちらも適宜補足や修正を加えながらより深く考えを伝えることができるでしょう。実際に会って話さなければ得られない楽しさが見出せそうですよね。
こう言い換えることができるかもしれない。ブログというサービスが、人間から会って話すという楽しさを奪った。
自分で言っておいて申し訳ありませんが、正確に言えば上記の表現は90%間違っています。なぜなら人間は(私自身も)ブログを通じて得られる楽しさと、実際に会って話す楽しさを別のものとして勘定していると思うからです。ブログは単なる文章力の向上目的や、日記のように不特定多数に共有するつもりもない目的で書いている人もいますよね。私なんかは自由に勝手にわがままにパソコンに向かって自分の考えを滔々と打ち込めるだけでも快感です。
しかし、技術やサービスは時に(皮肉なことに)人間から楽しさや豊かさを奪うモノにもなり得る。というのが私の主張です。技術やサービスの進歩が我々人間を追い越してしまった今、生み出す側の人間は、本当に、新しいその技術やサービスは我々人間の生活を豊かにし、楽しくさせるものなのかどうかを見極めなくてはならない。技術やサービスは人のために在るべきなのだと。技術やサービスのために人が在ってはならないのだと。
我々武山研究会は、どこよりもこのことを肝に銘じ、人々の生活をより豊かに、楽しくする『人のために在る技術やサービス』を生みだしていきます。(って下っ端が勝手に偉そうに宣言してしましました。。。)
最後になりましたが、なぜ私が『ブログというサービスが、人間から会って話すという楽しさを奪った。』という記述は10%正しいという含みをもたせたのか…、一冊の小説を紹介しておきます。覚悟して対峙すべし。伊藤計劃『ハーモニー』